生物学の古典を読む:「種の起源」を読んで
チャールズ・ダーウィンの名前を聞いたことがある人は多いだろう。しかし、チャールズ・ダーウィンの名著『種の起源』を実際に読んだことがある人は少ないのではないだろうか。私もそんな「名前を知っているだけ」の1人だった。生物学の知識を得るのであれば、古典的名著でなくても、現代の学術書を読めばいい、と私は思っていた。しかし実際に『種の起源』を読んだときに驚いたことは、知識に関してではなく、ダーウィンの鮮やかな洞察の過程に関してのことだった。
ダーウィンが『種の起源』で展開したのは、「変化を伴う由来」についての主張である。生物は自然淘汰に晒され、自然によって一部の変化が選択されていく。文庫本にして2冊に及ぶこの著書が主張することは、ほとんどこの一点と言ってもよい。今日、カジュアルに「進化」という言葉を用いる私からすると、これだけのことにこんなにも多くの文章を割くのは不思議なことだった。生物は自然選択によって進化してきた、という一言だけで事足りてしまいそうではないか。しかしダーウィンの推論は自分の想定を遥かに上回る慎重さ、着実さを孕んでいた。
なぜ彼はここまで慎重だったのだろうか。そこには無論、当時のパラダイム、先入観のようなものもあったかもしれない。だがそもそも、今日においても「進化」という現象を実証することは難しい。進化は、今も起こり続ける現象として実験されることもあるが、同時に決して遡れない過去に起こってきた出来事でもあるからだ。タイムマシンを作らないかぎり、進化が起こってきたことを実証することはできない。ダーウィンは実証できないこの主張を、推論の精密さを以て裏打ちした。彼はナチュラリストとして自分の目で見てきたものをもとに、帰納的にその根本原理を推測したのだ。この帰納的、というところこそ、私が感じた鮮やかさの正体だ。今までの私にとって科学とは、演繹的なものだった。科学はいつでも確実でなければいけないし、確実な推論は演繹的な推論だけだ、と私は考えていた。たしかに帰納によって得られた仮説は、演繹の結果と違って確実ではない。しかしそうして得られた仮説は、科学を推し進めることができる。ダーウィンの慎重さは、この帰納に関する慎重さだった。その帰納のもっともらしさを高めるために、ダーウィンは多くの観察を行い、推論に文章の多くを割いた。私はダーウィンの巧みな推論の方法を『種の起源』に感じ、仮説を打ち立てることの重要さに気づかされた。
ダーウィンはその観察力によって自然の様相を捉え、科学の変革を引き起こした。科学は決して確実なことから確実なことだけを結論づけていく作業ではなく、仮説を打ち立てていく行為でもあった。小心翼々たるダーウィンの文章には、新しい世界を切り開こうとする熱意が溢れていた。彼が教えてくれたことは、仮説そのものについてだけでなく、科学における態度と方法についてのことでもあったのだ。





