生物と放射線 研究装置開発から医学基礎研究へ
宇佐美 徳子 先生
目に見えない放射線はどのように生物に影響しているのか。6年前の原発事故以来、筆者はこのテーマに強い関心を持ち続けてきた。まだまだ分からないことも多い放射線は、どのように研究されているのだろうか。放射線についてさまざまな研究が行われる中で、今回は、放射線が生物に与える影響について研究する、高エネルギー加速器研究機構(KEK)の宇佐美徳子(うさみのりこ)先生に、現在力を注いでいる装置開発について、また、未来のガン治療につながるかもしれない基礎研究について、研究者になるまでの道のりと合わせて、お話を聞いた。
放射線を個々の細胞に照射する装置の開発
宇佐美先生は筑波大学出身である。当時の指導教官であり、現在は退官している小林克己先生とともにKEKに移った。そして、KEKでは、「放射光X線マイクロビーム細胞照射装置」を開発し、放射線が細胞に与える影響について研究している。この装置は、放射線の一種であるX線のマイクロビーム(非常に細い光線)を、細胞の狙った部分に照射する装置である。この装置は他の研究者達にも利用され、低線量放射線が生物に与える影響について数多くの研究がされている。
そもそも、放射線の高線量と低線量の違いは、放射線の密度である。高線量の場合はすべての細胞に対してほぼ一様に放射線が当たり、低線量の場合は一部の細胞にしか放射線が当たらない。一方、マイクロビーム細胞照射装置を使うと、狙った細胞にピンポイントに放射線を照射できるので、低線量放射線が生物に当たった状態を再現することができる。加えて、個々の細胞にビームを当てるだけでなく、位置情報を用いて個々の細胞を追跡して観察できるというのが、マイクロビーム照射装置の特徴だ。
写真: 宇佐美先生と放射光X線マイクロビーム照射装置(一部)。右下のパイプを通った放射光をケイ素(Si)結晶で反射させることで、顕微鏡のステージ上で狙った細胞にピンポイントに照射することができる
宇佐美先生らが開発した放射光X線マイクロビーム照射装置のユニークな特徴は、ドーナツ型のマイクロビームを照射できることだ。この装置は、細胞の中心にある核には放射線を当てず、核以外の細胞質のみに放射線を当てるために開発されたという。宇佐美先生は「この装置のおかげで、細胞が放射線を感知するのが細胞の中心にある核なのか、それ以外の細胞質なのかという課題を研究することができるようになりました」と語っている。
写真:放射線によって発光するシンチレーターという物質を用いてX線マイクロビームを可視化した写真。左から、通常のマイクロビーム(小、大)とドーナツ型のマイクロビーム。小さいマイクロビームは細胞核照射用、大きいマイクロビームは細胞全体照射用、ドーナツ型のマイクロビームは細胞質照射用である。: 宇佐美先生と放射光X線マイクロビーム照射装置(一部)。右下のパイプを通った放射光をケイ素(Si)結晶で反射させることで、顕微鏡のステージ上で狙った細胞にピンポイントに照射することができる
未来のがん治療へ向けて
宇佐美先生は、上述の放射線が細胞に与える影響についてだけでなく、がん治療につながる可能性のある基礎研究にも興味を持ち、2種類の研究に取り組んでいるという。
1つ目は、放射線によってがん細胞にダメージを効率的に与えるための研究。手術以外のがん治療の選択肢として、現在抗がん剤とともによく知られているのが、放射線治療である。放射線治療は、がん細胞に放射線を照射してダメージを与え、がん細胞を死滅させることでがん腫瘍を小さくする。
宇佐美先生は、質量数の大きい元素である重元素化合物を細胞に取り込ませ、放射線を当てるという方法を試みている。重元素にエネルギーを集中させると、その周辺のDNAなどの生体分子の結合を切ったりできるようになるのだという。さらに、フランスの共同研究者が作った重金属ナノ粒子を細胞に取り込ませ、X線とは異なる放射線の一種、重粒子線を当てて効果をみる研究も進めている。
2つめは、「免疫療法」に関係する研究である。免疫療法は体の免疫力を高める治療であり、体内の免疫システムを使って、体にとって異常ながん細胞を死滅、排除を促進させる方法である。
宇佐美先生は、薬剤と放射線を組み合わせ、免疫細胞を活性化しようと試みている。このアイディアの利点は、使用する放射線量が従来のがん治療よりも少なくできる可能性があることだ。使用する放射線量を抑えられれば、患者さんの負担を軽減することができる。
放射線が“クリア”にみえた
宇佐美先生が放射線の生物に与える影響を研究対象にしようと思ったのは、「放射線がとても“クリア”にみえたから」(同先生)。大学時代、ある元素と陽子数は等しいが質量数の異なる元素、放射性同位体を用いた実験を行った際、測定のしやすさに、複雑である生物の研究に用いやすいのではないかと感じ、研究の対象にすることになった。
また、当時受講していた「放射線生物学」という講義が非常に面白く、その講義を担当していた小林先生のもとで卒業研究がしたいと思ったのも、大きな決め手となったということだ。
自らの研究や興味をもったきっかけについてイキイキと語る宇佐美先生だが、もともとは生物ではなく化学が好きだったという。しかし、テレビで見た遺伝子工学の実験に魅せられて大学で生物を専攻することを志し、高校では生物を選択していなかったため、物理化学でも受験できる筑波大学を選んだ。
大学に入った当初は、自分よりも生物学に詳しい友人を見て劣等感を感じ、軽音楽サークルの活動に没頭する「濃密な学生生活」を送っていたという。しかし「現在は研究者になったのだから、不思議なものです」と、宇佐美先生はこれまでの道のりを振り返っている。
高校生へのメッセージ
最後に、未来の後輩になるかもしれない高校生に伝えたいことを聞くと、宇佐美先生は「コミュニケーションの重要性」を挙げ、「若い頃の研究者のイメージは、コミュニケーションが得意な人、ではなかったですね。研究は、コツコツ一人でやるものだと思っていて。けれど、実際研究者になってみると、本当にコミュニケーション能力が大事で。よほど天才的な人は別ですが、人と話したりしながら自分の研究もどんどんブラッシュアップされてきます」と語った。
また、KEKという、物理学の研究も行われている場にいる研究者ならではだろうか、次のようなアドバイスも。「生物学と物理学は似ているところがあるし、生物学にも物理学的な見方は必要であると思う。生物学を物理学的に見ると楽しいので、生物学類に入学する人たちには、物理学に苦手意識をもたないでほしい」(同先生)。
この記事を読んでいる人の中には、物理学に苦手意識のある人は少なくないであろう。筆者にも少し苦手意識がないわけではない。しかし、取材中に先生がご自身の研究についてイキイキと語る様子を見て、生物学だけでなく物理学も苦手意識を持たずに向き合っていけば、宇佐美先生のようにイキイキと語れるような興味深い研究が見つかる可能性が広がるのではないか、と思った。
【内藤】