「CO₂シープ」でわかる海の未来:海洋の温暖化、酸性化による変化を追う
海は私たちの暮らしに欠かせない存在です。人間の食や文化を支えるだけでなく、地球全体の環境バランスを保つ重要な役割を担っています。しかし、ふと思い返してみると、私たちは「海で何が起きているのか」を意外と知らないままに暮らしていることに気づかされます。そして今、海の未来を理解し、守るための研究がますます重要になっています。
筑波大学下田臨海実験センターで研究を行うベンジャミン・ハーヴィー先生(Benjamin Harvey、以下 Ben先生)は、そんな変化する海を理解する最前線に立つ研究者の一人です。専門は海洋生態学(marine ecology)であり、気候変動や海洋酸性化が、海の生態系にどのような影響を与えるのかについて探っています。
天然の実験場、“CO₂シープ”
海の中には、”CO₂シープ(CO₂ seep)”と呼ばれる二酸化炭素ガスの湧出域点があります(図1)。これは火山活動によって海底からCO₂が泡状に放出される場所で、周囲の海水は長期間にわたって酸性度が高くなっています。東京都式根島近海は、こうしたCO₂シープを観察できる世界でも数少ない場所の一つです。気候変動の進行により、将来の海では世界的に酸性化が進む可能性が指摘されています。そのため、CO₂シープは未来の海の姿を先取りして理解するための「天然の実験場」とされています。
en先生がこの分野に関心を持つようになったきっかけは、海藻や貝、魚などの生物が環境変化にどのように反応し、どのように共存しているのかという問いでした。大学院生のときには、海洋温暖化と酸性化が生態系に与える複合的な影響を調査する国際プロジェクトに参加しています。イタリア南部のシチリア島でCO₂シープの調査を行い、自然由来のCO₂放出によって海水のpHが低下し、貝類などの石灰化生物が減少する一方、海藻が比較的優勢になるといった生態変化を観察しました。こうした経験が、現在の下田での研究へとつながっています。

図1. CO2シープの模式図 (筆者作成) 火山活動に由来する二酸化炭素が地下で水と混合し、海に湧き出すことでCO2シープが起こる。
来日と黒潮大蛇行との遭遇
Ben先生が日本に来たきっかけは、国際共同研究プロジェクトへの参加でした。当初は日本で研究することが決まって驚きと戸惑いもあり、文化や研究環境の違いを感じたとお話しされながらも、その経験を非常に楽しんでいることが伝わってきました。これまでの日本での研究生活の中で印象的な経験として挙げたのは、2017年から続く「黒潮大蛇行」です。
Ben先生が所属する国際研究チームは2017年から、黒潮のダイナミックな変化とそれに伴う生態系の反応について継続的な観測を行ってきました。その結果、コンブやワカメなどの海藻群落の減少と、サンゴや熱帯性魚類の北上といった顕著な変化を捉えています。これは「レジームシフト(regime shift)」と呼ばれる、生態系のバランスが大きく変化する現象ともいえます。この背景には、地球温暖化による海水温の上昇と、黒潮大蛇行による海流の変化が影響していると考えられています。黒潮が紀伊半島沖で大きく蛇行すると、伊豆半島沿岸に温かい海水が流れ込み、下田周辺の海水温が高くなります。その結果、南に住む草食性の魚類が長期間湾内に滞在し、海藻の再生が難しくなっているのです。かつては冬の低水温によって魚が南へ戻り、海藻が再生する周期が保たれていましたが、近年は魚が一年を通して残留し、藻場の回復が進みにくくなっています。「冬でも魚が残るようになったことで、海藻が回復する時間が失われつつある」とBen先生は説明します。
多様なアプローチで“見えない変化”を追う
Ben先生の研究室では、実験室での水槽実験、現地での海中観測、数理モデリングを組み合わせた統合的な手法を用いて研究を進めています(図2)。水槽実験ではpHや温度を厳密に制御し、個々の生物の反応を観察します。ダイビングによる現地観測では、生物群集全体の動態を記録し、得られたデータを数理モデルに統合することで、局所的な現象を広域の変化として理解します。「学生はやっぱりダイビングが好き」と微笑みながらも、「特定の現象を一つの方法だけで見ると、全体像を見失う危険がある。だからこそ、実験・観測・モデリングの橋渡しが大切だ」とBen先生は語ります。こうした統合的な手法は海洋生態学の中でも先進的であり、短期的な観察と長期的な観察の成果を統合させることができます。

図2. 多様なアプローチで海洋の温暖化・酸性化・熱波について総合的に研究 左上は実験室の様子。右上はダイビングによる海中観察の様子。下の図は、数理モデリングを用いた研究。
目に見える形で科学を伝える
Ben先生は、研究成果を視覚的に伝える取り組みにも力を入れています。写真家や映像制作者と協力し、CO₂シープ周辺の海底とその変化を撮影しました。CO₂が噴出する場所では海藻がほとんど見られず、岩肌が黄色く変色しています(図3)。一方、通常の海域ではサンゴや海藻、魚が共存する豊かな景観が広がります。この対照的な映像は、酸性化が生態系に与える影響を直感的に理解できる貴重な資料となっており、研究だけでなく教育活動にも活用されています。「数字やグラフだけで語るだけではなく、臨場感のある映像を見せることで、多くの人の心に届く」とBen先生は目を輝かせて語っていました。
私たちが知らず知らずのうちに海は常に変化していて、その変化を理解することが、未来の海を守る第一歩になるでしょう。Ben先生のお話からは、静かな情熱と未来を見つめるまなざしが感じられました。下田の海で進められている研究は、私たちがこれからの時代にどのように海と関わり、共に生きていくかを考えるための大切なヒントを与えてくれるでしょう。

図3. 岩肌の様子:左は通常の海域であり、右はCO2シープ周辺の海域。右側では。特定の海藻だけが繁茂し、生態の多様性が失われていることが分かる。
【取材・構成・文 筑波大学大学院社会工学学位プログラム 糸井風音】




