己の可能性を狭めない
ミトコンドリアと歩む研究人生
筑波大学生命環境系の石川香先生は、筑波大学の教員の中でも珍しい、製薬会社での研究職を経験された方です。今回は、先生の研究テーマであるミトコンドリアや、学生時代に考えていた進路、企業での研究について伺いました。
1. 老化のメカニズムを解く ミトコンドリアに始まる石川先生の研究
あらゆる生物にとって「老化」は宿命です。
老化のメカニズムに関する有力な説の一つに、ミトコンドリアDNA(mtDNA)への突然変異の蓄積がその一因であるという「老化ミトコンドリア原因説」があります。mtDNAは核DNAに比べて5-10倍突然変異が蓄積しやすいと言われており、生きている間に変異が蓄積することによって、ミトコンドリアの呼吸機能は低下してしまいます。それが原因となって活性酸素種の産生が増加し、さらにmtDNAに変異が入りやすくなるという悪循環が老化を引き起こしていると考えるのが、老化ミトコンドリア原因説です。
石川先生は、この説が正しいのかどうかを検証するため、老化モデルマウスのmtDNAのシーケンスを実際に読み解く実験をされています。また、ヒトのミトコンドリア病の原因を解明するため、mtDNAに突然変異を有するマウスを使って、マウスとヒトで見られる症状の比較などを行い、症状が多様に生じる原因を探る研究も行っています。
2. ミトコンドリアとの出会い 「0+0が100になる」
石川先生は、筑波大学生物学類の3年次の専門英語の授業で、中田和人先生や林純一先生が書かれたミトコンドリア間相互作用に関する論文に出会ったことをきっかけに、ミトコンドリアの研究の道に進まれました。その論文は、ミトコンドリア病患者から単離された、mtDNAのtRNA(lle)とtRNA(Leu)遺伝子に病原性突然変異をもつ2種類の呼吸欠損細胞株のmtDNAが導入された培養細胞を用いた研究で、これらの呼吸欠損細胞同士を融合して2種類の変異型mtDNAを同一細胞内に共存させると、融合後10-14日でミトコンドリアの正常な形態と呼吸酵素活性が回復するという内容でした。この融合ミトコンドリア間での継続的な遺伝子交換による相互作用は、ミトコンドリア機能障害に対する高度な防御手段であると考えられ、ヒトミトコンドリア病を理解する上でも非常に重要な研究成果となっています。
論文を読んだ石川先生は、ミトコンドリアの研究に関して「凄く独創的で0+0が100になることを示した、よく練られた実験」という印象を受けたそうです。そして、「こんな独創的なことをやっているラボなら面白いな」と思い、林純一先生のミトコンドリアの研究室に入られました。
3. 教員志望だった大学生時代、訪れた研究員としての契機
製薬会社勤務の研究員という経歴をお持ちで、現在は大学教員をしていらっしゃる石川先生ですが、学生時代は高校の生物の教員を目指しておられました。教員免許を取得後、専修免許取得のため、もともと修士課程までは進むつもりだったとのことですが、教育現場には高い専門性をもった教員にも一定の活躍の場があるのではないかという考えのもと、最終的に博士課程まで進まれました。
そんなある日、先生は武田薬品工業の採用試験を受けてみないか、という打診を受けます。これは指導教員だった林先生の後輩にあたる武田社員の方が、林先生に創薬に興味のある学生の紹介を依頼したことによるものでした。当時、創薬はおろか、一般企業への就職自体を全く検討していなかった先生は、正直、この申し出に相当面食らい、迷われたそうです。しかし、他の就活生と同じように採用試験を受けるので、紹介を受けたからといって採用が保証されるわけではありません。会社の人事担当者が自社に向いていないと思えば不採用にするだろうという思いと、今まで検討していなかっただけで、こういう話がきたのも一つのきっかけかもしれない、それならやるだけやってみようという考えに至り、採用試験に臨んだ結果、採用が決まりました。採用されたということは、会社側が「君なら当社でそこそこやっていけるはず」と判断したということだから、どこまでできるかやってみよう、もし全然合わないとわかったら、その時はもともと希望していた教員になろう、と最初は思っていたと話されていました。
4. 研究者としての萌芽、企業研究の面白みと思わぬ障害
当初、製薬会社での研究に対しては「好きなことができない、上から言われた決まったことしかできない、独創的な面白い研究はできない」というマイナスなイメージを持たれていましたが、実際にやってみると「めっちゃ楽しかった!」とのことです。
石川先生が勤めていらしたのは、筑波の北部に位置する武田薬品工業の創薬第二研究所、がんに関する研究を行う研究所です。研究職では、入社1年目でも、専門性やその最新の知識を持っていることを前提に即戦力としての活躍を期待され、すぐにプロジェクトにも携わることができます。先生は当時、前立腺がんのプロジェクトに関わっておられ、男性ホルモンを抑えてがんを抑制するという研究を行っていました。入社する前に持っていたイメージとは反対に、研究は非常に面白く、担当のプロジェクトには熱意を持って取り組めていたとお話しされていました。
製薬会社は、何万個と言う候補化合物のうち、実際に薬として世に出るのは一、二個と言われるほど、成功率の低い業種です。製薬研究の進行としては、例えばがん研究のプロジェクトを例にあげると、まずがんに効くとされるターゲット因子の発想から始まります。そして、その案が採択されるとプロジェクトとして成立し、実際に実験・検証に移ります。そこである程度結果が出るとようやく次のステージに進み、化合物の大規模合成が展開され、それぞれの作用を検証するという流れで進みます。
これらのステップはステージごとに分かれており、次のステージに進むか否かは毎回厳格な会議によって決定されるため、プロジェクトが最終段階まで進むことは非常に稀です。先生が関わっていたプロジェクトは臨床開発直前の高いステージにありました。しかし、その矢先、武田薬品工業の経営方針の転換によって、なんと先生が関わっていたプロジェクトは打ち止めになってしまったのです。
この決定に対して先生は抗議を行いましたが、打ち止めが決定した研究が再び動き出すことはありませんでした。その後先生は他の研究部署へ異動し、中枢疾患の研究に就き、新しいプロジェクトの立ち上げに携わりました。このプロジェクトでは、大学時代の専門を活かしてミトコンドリアの融合促進や分裂阻害を行うことで神経変性疾患の治療に繋げられないか、というコンセプトのもとに検証を行いました。
企業研究員としてのキャリアを振り返って先生は、「企業に行ったことで、大学では扱えない機器や企業での研究の進め方を見ることができたから、いい経験だった」「創薬は成功確率の低い分野だけれど、成功しなかった場合も『その化合物は薬にはならない』という結論を出すことで社会の役に立っている。会社の研究は社会に近い、人の役に立っている感があるからいいよね」とお話しされていました。
5. 企業での研究経験を通してわかった大学での研究の意味
大学に戻った先生ですが、武田薬品工業で一緒にプロジェクトに関わっていた元同僚の方々との交流は継続していました。
そして、武田薬品で樹立されたミトコンドリア融合因子MFN2の変異体を神経細胞特異的に任意のタイミングで発現させることが可能なマウスモデルを活用して、ミトコンドリアと神経変性疾患の研究を大学でも続けられていました。このモデルマウスを用いた実験では、まず生後すぐに変異型MFN2を発現させた個体は急性かつ重篤な表現型を示し、致死的な結果が見られました。しかし、成体になってから発現させた個体では、ヒトの神経変性疾患に類似した遅発性ではあるが進行性の表現型を誘導するということがわかったのです(下図)。これらにより、神経変性疾患のモデル動物を作成する際は、変異の発現のタイミングを考慮することが重要であることが明らかになりました。
企業と大学での研究の違いを伺った所、「大学の研究は社会の役に立っているかって言われると、そうでもない研究もある。けれど役に立たないからだめなわけじゃない。企業でできない研究だからこそ、大学でやる意味がある」と先生はおっしゃっていました。
私が一年次に受けた基礎生物学実験では真面目に指導してくださる印象が強めだった石川先生ですが、その胸の中には自分の可能性に誠実な研究者としての情熱を宿していらっしゃることが垣間見えた取材となりました。
6. 自分の可能性を狭めないで
最後に、先生から進路選択を控えた学生へのメッセージを頂戴しました。
「とりあえず自分にできそうなものをやってみる。自分にはこれが向いている、向いていないって、自分で自分を型にはめがち。私も思い切って企業に就職してみて、想像していたよりずっと楽しいと感じたし。多くの人は明確に進路の希望がなくて、とりあえず就活が始まっちゃうことが多い。そういうときは案外自分が興味ないって思っていた分野とか、自分だったらこれは選ばないなっていう分野に片足突っ込んでみるのもいいと思う。そういう中に意外と自分に合う面白いものがあるかもしれない。だから、自分の可能性とか、やれそうなこととか狭めないで欲しい。案外人間っていろいろなことができる。今はキャリアアップのために転職しますっていう欧米のスタイルも徐々に出てきているし、やってみてダメだったら別の方法を考えるっていうのもあり。生物学類だから理系を生かさなきゃいけないとか思いがちだけど、大学は通過点だから、あとは学生さんがハッピーに暮らしていければいい。自分で決めて、自分で責任を取るのが大事」。
【取材・構成・文 生命環境学群生物学類2年 前田ちひろ】